もっと言葉にニュアンスを込めるべきなのか、それとも、感じるべきなのか

 私は最近、「ありがとう体験」×「自分の専門性(得意分野)」の掛け算ばかりを考えています。なぜなら、そこに新たな研究領域やビジネスチャンスが隠されていると考えるからです。

 

 先日ある人と、このテーマの延長線上で懇談する機会がありました。その方は、言葉をとても大切にされている方で、言葉に意味だけではなく様々な「何か」を込めた筆文字を描くための技術をもっている方です。その「何か」とは、音楽と同様、「ノンバーバル(非言語)」的なメッセージと言ってもよいでしょう。

 その方が描いた文字を見ていると、初めは言葉を意味として理解しようとしていた自分が、徐々に意味だけではなく、その文字が示す言葉としての意味以上の質感や温度感のような感覚的な「何か」を感じている自分に気づきます。

 

 「よく言われるんですよ、私が描いた文字はだんだん文字に見えなくなってくるって」

 

 他の方も同じ経験をされているようで、文字って文字として見なければ、文字じゃないっていう当たり前のことだけれど、そんなことを話しながら、ふと『セロ弾きのゴーシュ』に登場する鳥(かっこう)のことを思い出しました。

 

 この物語に登場する鳥(かっこう)は、ただ、「カッコウ、カッコウ」と鳴いているだけで、ゴーシュにはさっぱりその鳴き方の違いがわかりません。でも、鳥(かっこう)にしてみると、「カッコウ」と「カッコウ」では、かなりの違いだと言います。勝手に想像するに、ゴーシュにしてみれば、「カッコウ」という鳴き方と「コケコッコー」という鳴き方くらい違いがあれば、すぐにその違いがわかったのでしょうけれど、どう聞いても「カッコウ」と鳴いているようにしか聞こえない、つまり、鳴き声を「カッコウ」という言語音でしか聞いていないから、どれも同じだとしか感じられなかったのではないか、と私には思えました。

 今の若者は、語彙力がないとか、「すごい」「やばい」などの一語文が多いなどという批判がありますが、もしかすると、“教養ある大人”は、自分がもっている語彙力が多いことをいいことに、「すごい」「スゴイ」「凄い」を単なる言葉としてだけ受け取り、それをもっともらしい他の言葉に置き換えて理解してしまうのかもしれません。その響きから醸しだされるちょっとしたニュアンスの違いに気づいていないかも知れないのに・・・

 

 文字を単なる意味を伝えるだけの道具としてではなく、そこにある形や音の響きそのものとして再認識してみる、すると、それまで蓋をされていた表現のパワーが少しずつ姿を現してきます。

 

 学生にも、普段自分たちが使っている言葉やそれを表す文字について、その意味だけでなく、形や響きといったものにも関心をもってほしいと願っています。

 

 そして、このブログの冒頭の問いかけへと繋がるのです。