「先生、指導案はやはりワードで作成したほうがよいでしょうか。」

 学生:「先生、指導案は、ワードで作成したほうがよいでしょうか。」

 学生指導のチャンス到来です。この学生は、ある先生から公的文書はワードで作成することを強く勧められていたようです。でも、その学生は、手書きのほうがすぐに修正できるし、作成スピードも早いと言います。そこで、私は、次のようにコトバを返しました。

 私:「この授業(音楽科教育法)は、公的文書作成法の授業ではありません。もう一度、この授業のシラバスに授業の目的と到達目標がどのように掲げられているかを確認してください。」

 学生は、少し安堵の表情を浮かべます。その表情を確認して、私は次のようにコトバを加えました。

 私:「少々乱暴な言い方をしますが、時と場合によっては、どうでもよいことは、どうでもよいのです。本当に必要なことは何かをまず見極め、それに優先的に時間を割いてください。いくらでも時間をかけてよいわけではないのですから。」

 私:「あっ、もしかして判読不能な達筆だったら、ごめんなさい。ワープロ使ってください。」(学生、笑)

 これ以上のコトバは必要ありませんでした。その学生は指導案をどのように作成すべきかを、自らの判断で決めることができたようです。

  「○○科教育法」といった授業では、教師からの発問(教育界では、質問のことを発問ということが多い)の工夫については、メジャーな授業内容の一つです。 しかし、児童生徒からの質問の方法については、扱われることが少ないようです。(市販の○○科教育法の教科書ではまず見かけません。)

 でも、児童生徒の質問の質を高めることは、主体的に学ぶ姿勢を育てることに直結しますし、教師と児童生徒が共に授業という学びのコミュニティを形成していくことに繋がります。これについては、別の機会に「学生からの質問で作る授業」(仮題)で書いてみたいと思います。

 ただ、悲しいかな、「センセイ」という職業は、「教えなきゃ、教えなきゃ」っていう呪縛から解かれないことが多いのです。(←教員駆け出しの頃の私がまさにコレ)

 「そこは違う、教えるんじゃなくて、気づかせるところーッ!!!」

幼稚園教育要領の「表現」の内容の取り扱いには、次のような行が出てきます。

 「生活の中で、様々な音、色、形、手触り、動きなどに、気づいたり感じたりするなどして楽しむ」

 「気づく、感じる、楽しむ」

 難しいのが、気づくためのきっかけを教えることと、気付きそのものを教えてしまうことは似て非なるものであるということ。

 そうです。
 「一人の質問、みんなの声」
 「質の高い質問は、授業の質も高めます。」

 明日から、15回目の最終回の授業が始まります。毎年恒例の、この2つのコトバを学生に伝える日がやって来ました。