◇「頑張る」という言葉の意味が変わりつつあるのか
「さぁぁ~おまえ達、あの夕陽に向かって叫ぶんだ~頑張るぞー、ハイっ!コーチ、俺たち頑張ります!」
昭和の時代の青春ドラマの一コマにはこのような台詞がよく出てきます。私の研究室からも綺麗な夕陽がよく見えます。私はこの夕陽に向かって叫ぶことも、「頑張る」ということも感じたことはありません。「小さいけれど今日もいろんな幸せを感じられたなぁ」とかつての日高晤郎ショー(STVラジオ)のエンディング曲『♪渚のトランペット』が頭の中に流れます。
『広辞苑』第7版によれば「頑張る」とは当て字であり、「“我ニ張ル”の転」を表していると言います。そして、次の三つの意味を挙げています。
①我意を張り通す。
「まちがいないと―・る」
②どこまでも忍耐して努力する。
「成功するまで―・る」
③ある場所を占めて動かない。
「入口で―・る」
『大辞林』第4版ではどうでしょう。「〈我(が)に張る〉または〈眼(がん)張る〉の転」、やはり「頑張る」は当て字とされ、
①あることをなしとげようと,困難に耐えて努力する。
「―・って店を持とう」「負けるな,―・れ」
② 自分の意見を強く押し通す。我を張る。
「ただ一人反対意見を述べて―・る」
③ある場所を占めて,動こうとしない。
「入口には守衛が―・っている」
どこかこれら意味の説明に違和感を覚えないでしょうか。私たちの周りで使われている「頑張る」は、上司や先生から「頑張ってください」という言い回しで使われたり、忙しくて疲れている方へ使われることが多いように思います。「それではみなさん、大変だとは思いますが、頑張ってください!」というような言い方で使われます。このようなコトバを発する方は、激励の意味を込めて話されているのでしょう。しかも、すでに十分に“頑張って”いると受け手が感じていても、発せられるのです。
それとも、今は「頑張る」という言葉の意味が変わりつつあるのでしょうか。言葉は生き物、時代と共にその意味が変わることはよくあることです。私には「頑張ってください」というコトバが、「大変なのは分かっていますが、さらに無理をしてください。仕方のないことですから・・・」という意味に聞こえます。そう感じるのは私が「困難に耐えていない」からなのでしょうか。
「夕陽」、それ自体に意味などありません。「綺麗な」とか「今日も1日・・・だった」などという意味づけは、あとから人間がしていることです。「頑張る」という言葉の意味づけも、時代と共に人間が後付けして変わっていくことは仕方のないことです。ただ、言葉には受け手が必ずいるということが、夕陽とは異なる点です。夕陽は観ようとしない人には見えません。でも、「頑張ってください」という言葉は、受け手がいる状況で発せられているということを忘れてはいけません。
◇頑張っている人に向かって頑張れと言う無神経さ
学校の先生は学生や生徒に向かって、無意識のうちに「頑張りなさい」と使ってしまう職種です。もうこれは職業柄、仕方のない面もあると思うのですが、受け取る側からは、「もう、十分頑張っているのに、これ以上頑張れって言うのか!」という心の叫びが聞こえてきます。
「辞めたい」「何もする気になれない」「死にたい」「どうしていいか分からない」そして、「声なき声」・・・
仮に辞書と同じように「忍耐して努力する、しかも、どこまでも」という意味なのであれば、先生の「頑張れ」という言葉の使い方は、使い方としては極めて正しいです。なぜなら、「どこまでも・・・」だからです。今現在頑張っているという状況であっても、「どこまでも忍耐して努力する」のであれば、どんどん「頑張れ」と使ってよいのです。
でも、十分頑張っている人に向かって、さらに「頑張れ」と言うのは、どういう結果を招くでしょう。これまでの学校教育、いえ日本という国は、「頑張る」ということを美徳としてきました。その時代はそれが日常だったからです。「頑張る人は報われる」「頑張ることは良いことだ」というマインドコントロールが合法的に行われてきたのが、私のような世代が生きてきた昭和です。確かに、頑張ることが賞賛され、頑張らないことは「悪」とされて来たことは、体感しています。その時代はそれで通用したし、そのことに異議を唱える人もあまりいませんでした。そういった「頑張る」ということに慣らされてきた世代が、今、各領域において大所高所に立つ存在になっています。そして、無神経に使ってしまうのです・・・「頑張りなさい」と。
◇時代と共に変わった「頑張る」の意味
がむしゃらに取り組めば何とかなるという時代もありました。それで結果を出せることもあった時代だったからです。でも、今使われている「頑張りなさい」は、大河の向こう岸を目の前にして、「向こう岸へ渡りなさい」と言っているようにしか聞こえません。そうなったら、泳ぐしかないでしょう。泳げる人はいいですが、泳げない人は途中で息絶えて死んでいきます。「ちょっと待て、そもそも大河の向こう岸に渡る必要が今あるのか、上流へ行ったら歩いて渡れるのではないか」などという疑問の余地すら与えられずに、ただ「頑張ってください」という言葉が発せられる。そのような目標(めあて)だけが与えられて、目的の本質が語られない教育がそこら中にはびこっています。
一休和尚なら、このような難題に何と答えたでしょう。「大河の向こう岸に渡れだと、分かりました。なら、十分に長い縄と泳げる人をたくさん集めてください。そして、あなたが泳げるのならまず向こう岸へ縄を持って泳いでください。その後を縄を掴んで次々とあなたに人を続かせます。途中で力尽きそうになっても後で泳いでくる人がいるので大丈夫、その縄はこちら側の岸に繋がっています。運良くあなたが向こう岸に着いたら大声で叫んでください。おーい、みんな頑張れーっと」
「頑張れー」という言葉は、最後までその人に寄り添うということを覚悟の上で発せられるべき言葉
それが、責任ある“頑張る”という言葉の用法です。
言いっぱなしの「頑張れー」は、「私は何もしないから、あなた好きにやってよ」ということと同じこと。そんな「頑張れ」という言葉を使う人の無神経さに、私は先生という仕事をしていて絶望感を覚えるのです。「これじゃぁ、人は育たない。ただ教えるだけの先生が増えていくだけだ」と。だったら、テレビ番組に登場する「今でしょう!」とかいう素晴らしい先生にみんなが習えばいい。日本中で不足している小学校教員の問題なんか、一発で解決します。
◇言葉自体に罪はないが、使われ方が問題
「頑張る」という言葉自体には何の罪もありません。ですから、つい「頑張りなさい」という言葉を使ってしまう気持ちは理解できます。特に私のような、職場では先生、家庭では「オヤジ」(今回のコラムから“オヤジ2号”となった経緯はまた後ほど)という役を演じている私も、ついつい家庭では「頑張りなさい」という言葉を、一種の愛情表現であるかのごとく使ってしまうことがあります。職場(大学)では学生に対して「頑張る」という言葉は、かなり慎重に使うようにしています。なぜなら、学生の頑張る(かなり無理をして様々なことに耐えながら努力するという意味)姿を目の当たりにしているからです。特に今年度は、コロナ禍で先生方も勿論大変な思いをしていますが、学生達もそれ以上の頑張りをしています。そのような追い込まれた状態の中で、それに追い打ちを掛けるように「頑張れ」という言葉をかけることは、夜泣きに苦労しているお母さんに「いつかは終わるから大丈夫よ」って言うくらい、無神経な言葉だと思うのです。いつかは終わるからって、今現在の苦しみを共有してほしいのに、「いつかは終わるよ」というのは、今のコロナ禍に於ける「頑張れ」と同じくらい、その言葉を聞いた人に無力感と絶望感を与えます。
このようなことを言うと、「河本の考えは学生を甘やかすだけだ」とお感じの方もいるでしょう。確かに甘いかもしれません、偽善的な優しさだと批判する方もいるでしょう。中にはズルをしている学生も紛れている可能性もあります。
ただ、これだけは言えます。ほとんどの学生は、十分に頑張っています。頑張っているかどうかの判断は、本当のところは本人にしか分かりません。でも、答えが出ないことに対して、人は安易に「頑張れ」という言葉を使ってしまいがちです。もしどうしても「頑張る」という言葉を使いたいのなら、それは何かしらの結果が出た後に、「頑張ったね」という使い方をすべきだと私は考えます。
◇作品は作家の手を離れ一人歩きする
「頑張れ」という言葉と同じく、一編の詩、絵画、彫刻、音楽等々・・・私たちは私たちの手から離れた存在に様々な意味を込めていきます。作品として作家の手を離れたときから、その作品は他者から解釈をされる対象となり、作者が考えていた意味とは違った意味を吹き込まれることもあるのです。意味は後付けなのです。瞬間芸である音楽表現は人類史上で言えば、つい最近まで直ぐさま消えてしまう存在でした。一人歩きが出来るようになったのは、レコード、CDやスマートホンなどに記録し、何度も何度も同じように再生することが可能となったからです。
◇ 芸術(芸能)は人々に寄り添ってきた
一人歩きをすることは決して悪いことではないし、人に迷惑をかけることでもありません。一人歩きですからそれに出会う人もいれば、出会わない人もいます。一期一会ということもあるでしょう。ただ、共通して言えるのことは、それを享受する人さえいれば、何かを届けたり伝えたりすることができるということです。その文字、絵画、音楽が、大きな力となり、その人の心の支えになることもあれば、何かの行動をするトリガーにもなることだってあります。最近は「Get
Wild帰宅」という退勤の仕方がTwitterなどでバズっているそうです。アニメ『シティハンター』のエンディングテーマとのことで、アニメ文化に疎い私はある方の紹介で知ったこの現象を早速検索してみました。「なるほど、これは音楽が、一種のトリガーになっている!」これも芸術が人々に寄り添う例だと感じたのでした。
文字は意味だけでなく頭の中で「音(おん)」となって耳に届きます。絵画は、そこから様々な想像や言語化できないようなメッセージ性を感じさせてくれます。音楽は、言葉が伴えば歌となり人々に勇気を与えたり希望を与えたりという具体的な意味とニュアンスが届けられます。音だけの場合は、中間言語とでも言うべき言語化は難しいけれども我々が脳内で感じたり考えていることを音で表現します。私たちはこのような文字や絵、音などで表現されるを所産を総合して芸術と呼んできました。
今ここで、「芸術とは何か」といった芸術論を振りかざすつもりはありません。ただ、一つ伝えたいのは、紀元前から私たち人間の心に芸術は寄り添ってきたという史実です。絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踊等々私たちが芸術として認識する範囲は広いです。でも、それらの芸術が、私たちに「頑張れ」と直接訴えかけることはありません。元気や勇気をもらうことはあっても、「頑張れ」とは言いません。ただそっと、寄り添うのです。詩的な言い回しのようですが、寄り添うというとは物理的な距離感で測れる身体的な寄り添いだけに留まりませんし、距離で測ることができない心の寄り添いもあると思うのです。
◇今の時代の「頑張る」という言葉の使い方
1994(平成6)年9月9日年にSMAPから『がんばりましょう』という歌がリリースされました。J-popはメロディが先に出来て、それから歌詞が後付けされることが多いのですが、こんな歌詞が出てきます。
「東京タワーで昔 見かけたみやげ物に 張り付いてた言葉は 〈努力〉と〈根性〉」
(※著作権の関係で歌詞の全文は引用できません)
まさに「頑張りましょう」です! 当時は社会党(当時)の村山富市が内閣総理大臣に任命され、オウム真理教の松本サリン事件が起こり、関西国際空港が開港し、バブル景気の象徴でもあった“ジュリアナ東京”が閉店し、日本がこれからどんどん変わっていくのではないかというムードが漂っていた時代です。そんな中で歌われた『がんばりましょう』は、「忍耐して努力する」ことを強いる言葉ではなく、歌となったことで前向きに生きていくメッセージとして受け入れられたのでしょう。私も当時はまだ高校の教員をしており、クラスのテーマソングとしてこの歌の歌詞を教室に掲示していました。でも、今考えるとその言葉に押しつぶされそうになっていた生徒もいたのかもしれません。ああ、なんという無神経さ。自分の熱き思いだけを伝える(押しつける)そんな26歳の青年教師ならやってしまいがちなことです。今なら分かります。
「頑張る」っていう言葉は、人からかけられるのではなく、自分自身で発する言葉である
・・・ということを。自分が頑張れるという時に、他者に向かって意思表示するための言葉であると言うことを。
「頑張ろう神戸」「頑張ろう東北」「頑張ろう日本」「みなさん頑張りましょう」みーんな、他者からの呼びかけ、標語です。現地で苦しんでいる人、みんなから見えないところで努力している人はどのようにこれらの言葉が映ったのでしょう。寄り添う言葉として受け入れられたのならよいのですが、今の学生達のように「もうこれ以上、頑張れって言わないでくれ~」とならぬよう、「頑張る」という言葉は、他者ではなく自らが発したいときに口にする言葉であることを、私はみなさんに強く強くお伝えしたいと思います。頑張りは比較できません。苦しみも比較できません。その人しか分からないことなのです。どうかそのことに気づいてください。
以上、コロナ禍の大学教育現場から“オヤジ2号”こと河本洋一(かわもとよういち)がリポートしました。
※なお文中の学生の声は全員に対して調査した結果に基づくものではなく、あくまでも私の周囲に集まってきた学生の声であることをお断りしておきます。
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