「○○世代」で括るということ

クリックで拡大:北海道新聞の夕刊コラム『魚眼図』
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◇物事の概念を共有化するためには括るということは必要だ

 

 北海道新聞の夕刊コラムに『魚眼図』というコラムがあり、1ヶ月半くらいのペースで寄稿しています。『ヒューマンビートボックスやヴォーカルパーカッション』の研究を紹介している私のホームページに関心を寄せてくださった北海道新聞社のT氏からの依頼がきっかけでした。2019(令和元)年5月頃のことです。実は私の高校時代の後輩の二つ上、ということは私の一つ上?というような繋がりの親近感もあり、それ以来、様々なテーマについて自由に書いてもよいと言われ、研究内容の紹介から音・音楽の不思議、コロナ禍での大学の様子など、本当に自由に書かせてもらっています。いつも私の駄文を隅々まで読んでくださり、細かな点を修正してくださることで、読者により分かりやすく伝わるコラムが完成しています。
 初回の『ヒューマンビートボックス』というコラム(写真)では、ヒューマンビートボックスとは何かについて、ビートボクサーという言葉の話しから始まり、普段は言葉を発することでしか使っていない口が「いま、ここで、なにができるか」を音楽で体現することに使われていることを述べました。このコラムでは、ヒューマンビートボックスという概念を一般の読者にも分かりやすく伝えようとするために言葉をできるだけ平易にし、説明もできるだけ言葉を削いでも伝わるように書いてみました。

 今回はヒューマンビートボックスという言葉が出来ていった背景(詳細は、研究業績コーナーのAFRAさんについて書かれた論文を参照)ではなく、毎年誕生する新語・流行語についての話題です。年末には新語・流行語大賞なるイベントもあり、その時代を新語を含む流行語が“確認”されます。新しい概念を人々が共有するために、言葉は重要な役割を果たしていることを実感する瞬間でもあります。

 

◇物事を一括りにすることの功罪

 物事を一括りにしてそれに新たな言葉を付けていくこと自体に悪意はないでしょう。商業的に仕組まれる場合もありますが、それはキャッチコピーとして人々に届きます。ただ、その新語による括りによって、人が傷ついたり偏見で観られたりする弊害があることを忘れてはいけません。そのわかりやすい例が「ゆとり世代」です。定義には諸説あると言われていますが、狭義的には当時の文部省(現在の文部科学省)の授業時間数の削減を受けた学習指導要領の下で“ゆとり教育”を受けた世代(1987年4月2日から2004年4月1日生まれ)を「ゆとり世代」と言うことが多いようです。なお、お断りいておきますが、“ゆとり教育”は文部省が定めた正式名称ではありません。マスコミが創り出した造語であると考えられています。この言葉によって、「ああ、ゆとり世代ね~」とか「ゆとり世代は、これだからなぁ」といった一括りの言い方や偏見が横行し、とても不愉快な思いをされた経験をおもちの方も多いでしょう。34歳~17歳くらいの年代をボワーンと指す言葉なのですが、「ゆとり世代」という言葉を付けられてしまうと、見るべき対象の方を率直に見られなくなり、「ゆとり世代」というわかったようなわからないようなバイアスがかかってしまう・・・。

 そう! それは、肩書きを語ってから自己紹介をするような感じですね。私は自己紹介をするときに、変なオジさんと思われたくないので、勤務先は伝えますが「教授」などという肩書きを言うのを極力避けるようにしています。例えば、「MUJIラーの河本洋一です」とか「スープカレーという言葉の発祥前からのスープカレーファンの河本洋一です」「夕陽マニアの河本です」と言うようにです。「最近は、ビートボクサーではないのに、なぜかヒューマンビートボックスやヴォイパの研究をしている河本洋一です」が多いかもしれません。

 

◇肩書きのような括り方が物事の本質を隠してしまう

 何度も書くとそれが逆に刷り込みになってしまうので、1回だけ書きます。それは、いま私がとても気になっている言い回しです。その言い回しとは「コロナ世代」という言い回しです。私のTwitter(@kawamotoyoichi)のフォロワーの方が調べてくださり、すでにこの名称が書籍に使われていることがわかりました。研究者なら必ずは使うサイト国立情報学研究所CiNiiの2021年2月5日現在の検索結果では、まだ論文では使われていませんでしたが、雑誌ではすでに使われています。ただ、論文ではないので記事のタイトルとして用いられている場合がほとんどで、何をもってこの言い回しを使っているのかは不明確、書名にだけ用いて本文では何も触れられていない場合もあるという状況です。でも、私は「・・・世代」が「ゆとり世代」のように使われ始めるというのではないかという危機感をもっています。だって、キャッチーですからね、こういう「ナンとか世代」っていう言い回しは、わかったような気にさせますから。ただ、論文を書かれる方にとっては、どうしてもこのような言い回しが必要になる場合があることも事実です。

 例えば、ヒューマンビートボックスで言えば、第一世代と呼ばれるビートボクサー達がいます。これはその後の時代の人たちが結果として括っているのです。最初から「俺たちは第一世代だ!」なんて自ら括りません。ヴォーカルパーカッションでも、自分自身がヴォイパをしているっていう認識なんかなくて始めていたKAZZさんみたいな方もおられます。後になって「それ、ボイパって言うねん」と言われたという、嘘のような本当の話もあります。ただ、ビートボックスではお家騒動がありますけどね。「俺が先だ、いや俺だ」という議論です。これも詳しくは私の研究業績のページの論文『日本におけるヒューマンビートボックスの概念形成〜世界的な潮流と日本人ビートボクサー“Afra”との関わりから〜』(査読付):『音楽表現学』Vol.17 日本音楽表現学会 2019をご覧ください。ダウンロードリンクも貼ってあります。

 「○○世代」っていう言い回しは、同時代を生きる人が語ることではないというというのが私の考え方です。後の人がその音楽文化なり世相を俯瞰したときに、初めて「○○世代」と呼ぶことが出来ると思うのです。でも、「ゆとり世代」にしてもそうですが、同時代の方がキャッチーな言い回しとして使用していることに、私は一括りで語られることの怖さを感じるのです。まだどうなるかもわからない、しかも汎用性のある概念として用いてよいかどうかもわからないうちに、それを分かった気にさせて大切なことを次々と見落としていしまうような気がするのです。私の杞憂で済めばよいのですが、枕詞のように使われ始めていることに、問題のすり替えや思考的停止の元凶が隠されているように感じられてならないのです。

 

◇流行語は遊び感覚でも、新語には慎重な配慮を!

 誤解しないでくださいね。新語が生まれることを否定しているのではありません。研究の世界では新たな概念規定をするために新語が必要になる場合がありますし、新しい生活様式を捉えていくためにも、新語が必要な場合もあるからです。ただ、学術用語と違って、「○○世代」という言い回し、特に大衆メディアによる一方的な使われ方は、人々の心を無意識に傷つけることがあります。自分はかわいそうだと思っていないのに、「あなたたってかわいそうね」って言われるのと同じくらい、無意識に人を傷つけることがあるのです。また、「○○世代」と呼ぶことで、個ではなく集団として括られてしまい、人々に固定的な観念を与え、それが先入観となって不愉快な思いをしてきた方も、これまでに多くおられるという事実を忘れないで欲しいのです。言葉は生き物です。時代と意味が変化したり、新語が生まれたりすることはこれまでもありましたし、これからもあることです。ただ、言葉は人と人とを繋ぐコミュニケーションの道具としてだけに存在するのではなく、言葉そのものが人に対して様々な感覚を与える「表現(物)」としても存在しているということを私は確認しておきたかったのです。「表現」として考えた場合、言葉であろうと、ヒューマンビートボックスであろうと、ヴォイパであろうと、括ることなど大して意味を持たなくなるのです。そんな括るのがどうのこうのとか、定義がどうのこうのということは、一部の学者さんに任せておいて(自虐ネタですね、笑)とにかく、口から発せられる音声によって、気分も変わるし、楽しくなるし、意思疎通も図れるし、そんな素晴らしい“発話器官”を使えるということは、本当に幸せなことであるし、幸せなことであるからこそ、人を不幸せにするような言葉が生まれてくる危機感に私は敏感になってしまうのです。

 

 「言葉は、人と人とを繋ぐ虹であってほしい」

 

 ある学生が語ってくれた言葉です。虹という実体のない見かけ上の現象に言葉を準(なぞら)え、それが人と人とを繋ぐという詩的な表現に、私はこの言葉をつい『ネタ帳』に書き込んでしまいました。新語をつくって語ることは決して悪いことではありません。学術用語としても誰が最初にその概念を構築し新語を世に送り出したかということは、研究者にとってはとても関心のあることです。でも、「括る」ということによって、何が起こるのかということも同時に考えた上で、語って欲しい・・・。特に、何でもありのインターネット上で多様化が進むと思いきや、実は画一化が進んでしまった~ではつまらないじゃぁないですか。そういった意味では、ビートボクサーのAFRAさんの動画すらぷるためさんの動画は、「○○世代」という言葉では括られず、決してビュー数も格段に多いわけでもなく、真の「表現」として存在し続けていると思います。

 

 「物事を括って語るのなら、まず腹をくくれ」

 

 これが私の率直な気持ちです。

 

※このコラムは、アメブロ『”オヤジ2号"のほぼ週イチ☆ブログ』にも、小見出しを加除修正して同時掲載しています。