「答えを欲しがる学生」×(  )=「未熟な大人」の方程式

学生 「先生、これでいいですか。」

私  「いいか悪いかは、僕は絶対に言わないよ。だってそれは僕の考えでしかないんだから。」

学生 「ん〜、難しいです。」

私  「何が難しいか、わかる?」

学生 「・・・・・・」

私  「どうしようか。」

学生 「自分のことがわかっていないと、書けないですね。」

 

 このやりとりは、履歴書を書くための基本情報としても活用される、進路調査票の「長所・短所・自分のセールスポイント欄」を書くのに苦労している学生とのやりとりです。学生は、私のところに自分が見つけることができない〈答え〉を求めてやってきます。この時に、直ぐに「それは、○○だよ」と返してあげると、学生は素直に聞き入れるでしょう。でも、このような時にこそ、〈答え〉を教えるのではなく、質問(発問)で返してあげることにしています。

 

 尾木ママこと尾木直樹氏は、『取り残される日本の教育〜我が子のために親が知っておくべきこと』(講談社+α新書)の中で、次のように述べています。

 

「日本では、”子どもは、能力も判断力も洞察力も大人より劣っていて未熟な〈成長途上人〉〈発展途上人〉であり、大人が管理したり、指示したり、導いたりしなければ正しく行動できないはずだ。だから、大人の言うことを素直に聞いていればいいんだ”というような考え方が古くからあります。」

 

 自分のことを語れない学生に対して、もし、私が「あなたの長所は○○だよ。」とか、「君は、××を直したほうがいいね。」と教えたらどうなるでしょう。きっと感謝されるでしょう。(その時だけは! 笑) 

 でも、そうは言いません。代わりに、こう言います。

 

私  「初めて会った人に、あなたのことを少しでも理解してもらうために、あなたなら何を伝えたい? そんな短時間で自分のことなんか伝わらないって思うかも知れないけれど、この調査票のことを、製品カタログだと思ってみてよ。カタログには製品の写真やキャッチコピー、製品の特長が書いてあるよね。そして、一番大切なのが、その製品をもっていると、生活がどう変わるかってこと。まぁ、カタログにはあんまり短所は書かれていないけれどね〜笑」

学生 「なんかわかる気がします。」

私  「そう、何が?」

学生 「全部っていうわけじゃないけど、これって、自分のために書くんじゃないかなって。」

私  「それって、どういうこと?」

学生 「なんかうまく言えないんですけど、そんな気がしてきました。書けそうな気がします。」

私  「そう感じた時がいいタイミングだよ。一年中こんなことばかり考えていると疲れちゃうけど、たまにはスーパーの商品の棚卸しみたく、〈自分の棚卸し〉って必要だと思うよ。」

 答えをもらったわけでないけれど、学生はスッキリした表情で研究室をあとにしました。学生が心に抱いていたのは、実は自分の長所のこともあるのですが、どうしてこの調査票を書かなければならないのか、という根本的な問いではないでしょうか。

 

 学生は、口には出しませんが、結構色々な疑問をもって授業を受けています。(と、想定しています。)

 

「指導案(※)に話し言葉は書いてはいけないというが、なぜ書いてはいけないのか。」

「進路調査票は、なぜ書く必要があるのか。」

「私は知りたくて質問しているのに、なぜ怒られるのか。」

 

 子育てをしていても感じることですが、質問と疑問を区別して接すると、尋ねられた方の答え方や気持ちが変わってきます。

単なる質問、例えば「私の長所って何だろう。」という問いかけが、「そもそも、私の長所を、なぜここで語る必要があるのだろう。」という疑問に発展した時こそ、教師や親の関わりのチャンス。でも、教師や親にとっては、少々面倒な子ども(学生)に映ってしまうこともあるでしょう。こんな疑問を口にする子ども(学生)は素直じゃないとか、生意気だとか、黙って書いて提出すればいいとか・・・。だから、学生は質問をすることに、半ば恐怖感を抱いている場合さえあるのです。

 

 疑問をもつこと

 

これは、質問に対する効率的な答えを導く力ではなく、自ら問を発する力です。

 

「答えを欲しがる学生」×(  )=「未熟な大人」

 

あなたなら、このカッコにどんな〈答え〉を入れますか。

 

(※)指導案:

 wikipediaでは、「学習指導案(がくしゅうしどうあん)とは、教員(学習支援者)が授業・講習などをどのように進めていくかを記載した、学習指導・学習支援の計画書のことである。 教育現場における略語としては、主に指導案(しどうあん)の語が用いられている。 教科・領域によっては「支援案」と呼ぶこともある。」とされています。保育現場でも指導案を作成します。多くの学生が指導案を書くことに苦労しますが、その指導案から実際にどのような具体的な言葉を発するかまでは検討されずに終わることが多いようです。あらすじだけで、シナリオやセリフがない舞台はないのと同じように、指導案という計画書があっても、そこから言葉を起こしていくのは、先生。そう考えると、「指導案に話し言葉を書いてはいけないのはなぜか」という疑問は、とても大切な疑問だと思います。