答えがないから生きられる

◇答えがないからこそ話し出したら止まらない

 

 ビートボクサーのAFRAさん、すらぷるためさんや、保育士でボイパの奥村政佳さん(おっくん)、ライターでご自身もボイパをされる杉村一馬(kazuma)さんとのZoomトークの撮影が順調に進んでいます。研究の一環(科研費研究基盤(C)19K02799)として実施する対面調査に代わる位置づけのため、初めは私から「こんなテーマで調査させてください。」とお願いして進めてきたのですが、徐々に話題が拡がり、研究の一環の調査という位置づけだけでなく、今後のヒューマンビートボックスやヴォイスパーカッションの動向から、音楽表現に関する教育や、教育全体の在り方、生き方に至るまで、とても大きな話題へと発展が始まっており、もしかするとこれはビートボクサーやボイパだけなく、広く若者全体へ向けたメッセージ性の高い調査及び動画配信になりそうな勢いです。まさに「何を聞くかではなく、誰に聞くか」の重要性を実感しています。

 

 「これで合ってますか。」

 

 私自身もよく学生との対話の中でよく耳にするフレーズですが、今回のZoomトークに出演された方々もよく耳にするフレーズだそうです。これって「これで合ってるって言ってください。」という意味が込められているし、そもそも「合ってる、間違っているという答えなんかあるのか」というのが、出演者に共通する見解です。私も同じ事を学生によく話します。特に今年の1年生は高校生までの生活で慣らされてきた“指示待ち”の状態で思考停止している学生が多い印象を受けます。無理もありません。だって、1年間のほとんどを遠隔授業というスタイルで過ごしてきたのですから。これは遠隔授業が悪いという意味ではありません。教師と学生が共に考えるあるいは感じるという機会を、コロナ禍という状況が奪っているのだと盲信してしまった結果だと私は考えるのです。本当は遠隔授業が問題なのではなく、その根底にあったものが顕在化しただけなのだけれど、この話題は別に機会に・・・。

 

 

◇決まり事がないからこその不安

 

 細かな決まり事がない音楽表現、これぞヒューマンビートボックスやヴォイスパーカッションの醍醐味の一つでしょう。ドラムであってドラムではない、ヒューマンな音によるビートの構築そして、一つのパートとしてのア・カペラ音楽の中での調和。音楽の方向性の違いはあれど、細かな決まり事がない中で行われている音楽表現という点では両者は共通しています。そして、絶対にこれが正しいという答えなどはないのです。

 一方、学生から投げかけられる問いはどうでしょう。例えば、先の見えないコロナ禍の中での授業の方法に対する疑問、自分が把握している情報正確さ、そして一番重要な自らの進路。このような問いに対して、「これで合っているか。」と尋ねられた場合、どのように言葉を返すべきでしょう。教員も分からない、総理大臣だって分からない、おそらく世界中の人たちがこの問いには明確な答えをすることは不可能でしょう。もしどうしても答えなければいけないのであればこう答えるしかありません。

 

 「その問いに対する答えはない。」

 

 このように返答されることは、さぞかし不安感を与えるでしょう。現にこの状況に耐えきれず不安感が増殖していき、俗に言う「コロナ鬱」に陥っている学生もいます。一方、鬱ではないけれど、ビートボクサーのビギナーが投げてくる質問も学生と極めてよく似た質問を投げてくることがあります。彼らは何らかの正解を求めてくるのです。そして返ってきた正解と思われる返答は、実際のところ正解ではないにもかかわらず、それを正解だと信じようとするのです。それはもしかすると、正解という衣をまとった商業主義ベースの何かあるいは、胡散臭いおまじないみたいなものかもしれないのに。インターネット上を行き交う情報の真贋を見極めることが難しくなってきている今、「問いに対する正解がない」ということに気づくことは難しいことででしょう。なぜなら、正解のようなもので今インターネット上(特にSNS上)は溢れているからです。そして、正解を見つけられない人たちの背中を押してくれるような人たちの動画(サイト)が、まるで待ち望んでいた正解のように受け取られる、様々な数値によって評価されていくわけです。それは、本当に正解なのでしょうか。

 

◇答えを探す過程に意味を持たせる

 

 私たちはこれまで「この問いの答えは・・・」という世界観に生きてきました。ただ、コロナ禍かから1年が過ぎ、答えがないのではないかということに気づき始め、それでも答えを探さなければいけないという現状に疲れ果てています。なのに、ヒューマンビートボックスやヴォイスパーカッションも合っているかどうかの答えがないのにかかわらず、SNSなどをうまく使って元気を取り戻しつつあるのはなぜでしょう。

 

 それは、「初めから答えなんかないさ」ということを分かった上で、創っていく過程そのものを楽しめているからだと私は思うのです。それは、「人生ってなに」という問いには答えられないけれど、人生の過程を楽しもうとすることならできるという姿勢と重なると感じます。

 

 答えがないということは、教える立場の人たちにとってはやりにくいことです。教わる立場の人たちもこれでよいのかが不安になります。ましてや表現者であるビートボクサーやボイパの人たちなら、なおさらのこと。結局、自分で納得できる何かが無ければ自分で自分を潰してしまうことに繋がりかねません。でも、答えを求める過程にこそ意味があると気づけたとき、答えのない問いに向き合う時間は、まさにそれが“自分を生きる”ということなのだ、そう感じさせてくれる話題がZoomトークの出演者から次々と発せられたのは、やはりコロナ禍という時代背景の影響があるのかもしれません。

 

 「答えは一瞬 そこに至る過程に意味を」

 

 答えがないことは不安感とセットです。でも、答えがないからこそ、私たちは今この時がいかに大切であるかを再認識するようになったと思いませんか。今この時に、小さな幸せが感じられる体質になれる、それがビートボクサーやボイパのさらなる醍醐味でもあり、学生を初めとする若者にも伝えたいメッセージとして、第12回のコラムを閉じさせて頂きます。

 

 最後に、医療従事者の方々をはじめとするコロナ禍の対応にあたられている多くの皆様へ、心からの敬意と感謝の意を表します。私に出来ることはこんな駄文を書くことくらいですが、少しでも「答えがない時代」のお役に立てるのなら、これほど嬉しいことはありません。