コロナ禍が生み出したコミュニケーション不全

◇文字は意味を伝える

この写真は、JR札幌駅横のJRタワー38階の展望室から北方向に見える夜景です。北へ向かってまっすぐに伸びる道路、直角に交わる交差点、眼下には合同庁舎やタワーマンションが見えます。この眩い光の中にたくさんの人々の暮らし、仕事があり、この光の中で私たちは生きています。暗い中に光を見ると何か遠い過去を思い出すような感覚になるのは、私たちの祖先が星空を眺め、明日の生活をまた無事に過ごせるよう祈りを捧げていたことの名残なのかもしれません。そして、この光の中には、北大病院も写っています。今まさにコロナ禍と戦ってる人の光です。そう思うと、この夜景を「綺麗だ」とは手放しに喜べなくなります。「写真」は「真実を写し取る」と書きます。まさに文字、しかも漢字だからこそ意味が伝わるという言葉だと言えるでしょう。

 

◇話コトバはニュアンスも伝わるが絶対的な意味など無い

 一方、人々が声を使って発するのが話しコトバです。ここでは、“kotoba”という音(おん)に着目したいので、敢えてカタカナで“コトバ”と表記します。言葉は声として発せられることで、コトバになります。そして、意味内容だけであった言葉に様々なニュアンスを込めることが出来ます。写真も同じです。この夜景の写真を見て、歓声を上げる人もいれば、泣きたくなる人もいるはずです。その時に抱いている感情や共に時を過ごす人によっても、同じ写真がまったく異なる感覚を人々に与えることもあります。

 目に見えるもの、耳から聞こえる音に絶対的な意味などないのです。ただ、“今”はこのような意味として用いている、“今”はこのようなニュアンスとして受け取られているというだけのこと。このことに気づけている人は、SNSや手紙、電話を上手に使い分けて自分を他人に伝えます。気づいていないけれど、無意識に使い分けている人もいるでしょう。そんなことを考えるのは、私が、ヒューマンビートボックス、ヴォイパ、日本語歌唱といった、音声と文字の両方に関われる立ち位置にいるからなのかもしれません。

 

 

◇文字言葉から声が聞こえるとき

 宮大工の松浦昭次は、著書『宮大工千年の智恵』の中で、写真を撮れば簡単ですが、絵に描くということは細かな所を見ることになる=その人それぞれの感覚でものを見ることになるので、写真では気づかないことにまで気づけると言っています。文字として定着された言葉も同じで、それを音声として発することでそれぞれの人がもつ感覚を発露することができます。元来文字言葉を使ったツールであるTwitterやLINEも、文字からその人の声が聞こえてくるように感じられると、意味だけでなくそれ以上の感覚を感じ取ることが出来ます。決して、文字言葉は意味だけを伝えると限定しているのではありません。会ったこともない方との文字だけのやり取り、マンガや小説の中に出てくる人物の台詞は、文字で表現されているだけに、受け手の想像力が逞しくなります。それもまた楽しみの一つです。

 

◇日常を失う若者達

 人は文字だけの表現で泣くことがあります。また、声だけの表現でも泣くこともあります。涙にも嬉しい涙、悲しい涙、悔しい涙、感動の涙など様々な種類があります。そのどれもが人と人とのコミュニケーションの構築において大切な表現です。でも、文字、声、涙などは、その人から外界へ発せられなければ、他人に気づいてもらえません。考えたことを文字に起こす、感じたことを声(音声)にするあるいは模倣する、泣きたいときには涙を流す。これらの行為がごく自然に行われる環境があること、そういう日常であってほしい、そう強く願うようになったのは、ヒューマンビートボックスの聞き取り調査がコロナ禍によって出来なくなり、学生の授業が全面的に遠隔授業になってからです。

 

◇これ以上若者達を追い込んではいけない

 これまでのような面と向かってのコミュニケーションの構築ができない中、どのように自分の思いを伝えたらよいのか、どのように自分をわかってもらい同時に自分と向き合うべきか。そのような疑問や不安に押しつぶされそうになりながら、その状況を外界へ発することが出来ないために発見が遅れ、自分で自分を責めたり、意欲を失ってしまったりする若者が増えています。

 そんな彼ら彼女らが声を発するまで待っているのではなく、ただもう無条件にその声を受け止めること、それもまたコミュニケーションの構築する上で、重要になっています。決して「こうあるべき」などという価値観の押しつけから入ってはいけないのです。絶対的な価値観などないのですから、まずは聞き入れること、これは妥協でも甘やかしでもありません。これは、新たな民族との出会いで私たちの祖先が行ってきたことそのものに他なりません。押しつけの歴史は列強の植民地政策の歴史と重なります。

 自分を表現出来ない学生がいる、これまでの価値観を押しつける先生がいる、このことこそがいまコロナ禍で抱える大きな問題の一つだと私は思うのです。遠隔授業か対面授業かなどという議論は、本質的な議論ではないのです。

 

 最後に、医療従事者の方々をはじめとするコロナ禍の対応にあたられている多くの皆様へ、心からの敬意と感謝の意を表します。私に出来ることはこんな駄文を書くことくらいですが、少しでも「答えがない時代」のお役に立てるのなら、これほど嬉しいことはありません。