【第1回】言葉崩しの魔術師:ビートボクサー“すらぷるため”


“すらぷるため”自身の作成によるアイコン
“すらぷるため”自身の作成によるアイコン

◇ビートボックスを始めたきっかけ

 「YouTubeでオススメ動画欄を見ていたら「Kenny Muhammad(注1)のYouTube動画をたまたま観る機会があり、その演奏に衝撃を受けて真似してみようと思ったのがきっかけです。」そう語るのは某美術大学のデザイン科出身で、芸術哲学にもアンテナを張っているビートボクサー“すらぷるため”氏です。

 そんな彼が、Kenny Muhammadの何にそんなに衝撃を受けたかというと、音楽を創り上げていく様子を分かりやすく説明していたというのが大きいようです。当時14歳(中学2年)だった“すらぷるため”氏(以下、“すらぷるさん”と呼びます)は、ビートの部分(リズム)を演奏して、ベースを演奏して、それを合わせるとこうなる・・・・という音楽の構造を分かりやすく伝えていたYouTube動画を、オススメ動画として偶然に見つけたのです。本当にたまたまビートボックスを観たというだけで、最初からビートボックスを観ようと思っていたわけではないんだというは強調していました。つまり、最初から「よーしビートボクサーになったるで~」と狙っていたわけではなかったということなのです。

(注1):Kスネア(吸気によるスネアドラムの模倣音)の演奏技術を最初に一般化したと言われるビートボクサー。2000年に、ビートボクサーAFRAも参加していたMB2000というユニットとニューヨークのセントラルパークで開催されるSummer Stage2000で共演しています。

 

◇“すらぷるさん”は言葉の方が不自由だと考える

 「初めは、既存の楽器の音を口で再現するのがヒューマンビートボックスだと思っていました。」というすらぷるさん、でも、今は違う考えをもっています。最近は、「言葉そのものっていうのは無いんじゃないか」っていう考え方が強いそうです。(出たっ、すらぷる節! ※筆者の心の声)

 

【河本先生の補足】

たまーに、“すらぷるさん”の話しは難しい話しになるので(笑)ちょっとだけ補足しておきます。

とてもお腹が空いていて、頭の中に鶏ガラのだし汁の醤油味のスープと縮れ麺というイメージがあって、それを食べたいという衝動があるとします。そのようなイメージを人に伝えようとするときに、「美味しい醤油ラーメンが食べたい!」と言葉を発するのです。でも、そのことを人に伝える必要がないときにはわざわざ言語化しなくていいし、単にその衝動や感情をイメージという言語化されない状態でもち続けていてもいいわけです。漫画『孤独のグルメ』(原作・久住昌之、作画・谷口ジロー)のように、「それにしても、腹が減ったー・・・」と井之頭五郎(松重豊)のように頭の中で言う必要はないのです。これが、“すらぷるさん”が言う「言葉そのものっていうのは無いんじゃないか」=イメージのみがあるという意味です。

 

 “すらぷるさん”は、このような頭の中の“イメージのようなモヤモヤっとしたもの”を言葉に置き替えて発するよりもビートボックスをしているときの方が、遙かにイメージの発生と発音のタイムラグが少ないと言います。このような考えに至ったのは、フランスの哲学者ジャック・デリタの「差延」(注2)という考え方を知ってからだと言っています。私は哲学の専門家ではないので、知ったかぶりの「差延」の記述は避けておきますが、“すらぷるさん”が伝えたかったのは、ビートボックスは、言葉よりも前の段階=“イメージのようなモヤモヤっとしたもの”を音声として表現しているということを言いたかったのだと思います。(注2:「差延」については、ジャック・デリタ著 林好雄訳『声と現象』筑摩書房をお読みになることをオススメします。“すらぷるさん”が言わんとしていることが書いてあります。)

 人間は自分の頭の中にある“イメージのようなモヤモヤっとしたもの”を外に出すときに、言葉に変換して外へ出していて、その際に、“イメージのようなモヤモヤっとしたもの”が頭に浮かんだ瞬間と、実際に口から音(言葉)が発せられる瞬間との間に時間的なズレが生じます。日本語でも英語でもそれは同じであって、ビートボックスの場合は、その時間的なズレが最小限に抑えられるのではないかというのが、私の最近の考え方です。

 

「私は言葉よりもビートボックスをしているときの方が、頭の中のイメージが淀みなく出てきます、つまり頭の中の“イメージのようなモヤモヤっとしたもの”と実際に口にする音とのタイムラグが少なくて済むんです。」

 

 何とも言葉崩しの魔術師“すらぷるため”氏らしい言い回しです。

 

 

◇“言葉崩しの魔術師”は教えるのではなく真似や反応を促す

 

 “すらぷるさん”はこう言います。

 

「ビートボックスは言葉に置き換える必要が無いので、私は淀みなくいくらでも続けていられるんです。だから、言葉と違って、ずーっと続けていられるんです。」

 

 確かに“すらぷるさん”のビートボックス動画を観ていると、どこで息をしているのか分からないくらいずーっとビートボックスを続けているという動画をよく目にします。そして、そのビートボックスの様子は、私のような素人で言うと、「感嘆詞」や「相槌」だけを口にし続けているという状態であると言うと分かりやすいかもしれません。会話をする中で、思わず口にする「おー」とか「うわー」「えーっ」「はーん」とかいう言語音を使ってはいるけれど、言葉としては発せられていない音、感情のまま、反応に近い形で出てしまうもの、それがヒューマンビートボックスではないかというのが“すらぷるさん”の考え方です。これを「なるほどね」って言ってしまうと言葉になってしまうけれど、「はーん」と言うと、ビートボックスに近い状態になるわけです。

 そうだとすれば「ヒューマンビートボックスは、最初から手取り足取り教わるよりも、真似や反応をして習得していった方がよいのではないですか。」と“すらぷるさん”に問いかけてみました。案の定、「〈習う〉よりは〈真似る〉〈反応する〉という方法が、私のワークショップの方法です。」という返事が返ってきました。ただ、そうであっても、最初はドラムセットの基本的な音の組み合わせを言語音を使って教えるとのことでした。

 

 ここから先が“すらぷるさん”流です。彼はこう言いました。

 

「それをどんどん崩していくんです。音の出し方にあまり拘らずに、あなたの音の出し方でいいので、まずはリズムに乗って楽しんでくださいという伝え方をするんです。正しい音がどうのこうのではなく、一緒にリズムに乗って私の真似をしてくださいという指導の仕方が多いですね。どうしても上手く音が出せないときは、技術的な事を教えることもあります。でもそれよりもまず大切にしていることは、一緒にリズムに乗ってくださいということなんです。」

 

 これと同じことを、ヴォーカルパーカッショニストのKAZZさんも言っていました。「身体がガチガチでリズムが感じられるかぁ、身体全体でリズムを感じるんや。もっとリズムに乗って!」KAZZさんの話題は、また改めて取り上げます。

 

 近くでワークショップを受けられないという方は、YouTubeで出回っている音の出し方を真似るのが上達への一番の近道だと思います、いわゆる解説動画です。解説動画だったら、一つひとつの動きをバラバラにしていき、それを組み合わせてこんな音を出しているということを何度でも体験することが出来ます。これがオンデマンド(いつでも好きなときに好きな場所で何度でも視聴できる)配信の良いところです。ただ、YouTube動画のようなネット上での聞こえがいいビートボックスと、ライブハウス等の現場でのビートボックスは別物と考えた方がよいでしょう。それは、ビート感は同じであっても、実際にスペクトルアナライザ(音響成分分析装置)で比較すると周波数特性も音圧もかなり異なるからです。ライブ会場で聴く歌とイヤホンで聴く歌が違うことを想像してもらえると、よくわかると思います。“すらぷるさん”は、「ネットは今の出来事ではなく、過去の出来事として捉えるべきだ」と言い切ります。これについては、別の機会に話題にしたいと思います。

 

◇言葉崩し:「嫌だ千欲しい」の発想

 

 言葉崩し・・・それは、最初は言葉として意味のある言語音が、次第にその意味を消失していき響きだけが残るという状態

 

 このことを私は「言葉崩し」と呼んでいます。似たような表現事例の作品には、ミニマル・ミュージックという音楽のジャンルの構築に貢献したアメリカの作曲家Steve Reich(1936-)“It's gonna rain"(1965)や“Come out"(1966)を挙げることが出来ます。当時はテープ作品で、短文の一部を切り取り多重録音を繰り返しながらその重ね方のタイミングを少しずつずらしていく(漸次変化)という実験音楽として登場しました。初めは言葉として認識されていた人間の声が徐々に変化していき、最後には音のカオス状態へと移り変わっていく、そこには旋律や和音進行といった従来語られてきた音楽の理論は全く通用せず、というかそもそも必要とせず、ただただその音の変化する時間を感じるといった作品なのです。後に作曲者のReich自身も「興味のあったのリズムのかんじ、いまここにある時間のかんじ、それにプレイするアクションだった。」(小沼純一著『ミニマル・ミュージック』その展開と思考 青土社 p.82)と語っています。

 時代は進みテープではなく音声をデジタル・サンプリング化することで加工を容易にするサンプリング・マシン(ループ・ステーションもその一種)という機器が登場しました。この機器の登場によって、ビートボクサー達は自ら発した音を手軽にデジタル化して処理することが可能となり、"すらぷるさん”のような「嫌だ千欲しい」といった最初は言葉として認識されているものが、徐々にスライムのように崩れていき、偶発的なビート感を生むということが可能になったのです。「嫌だ千欲しい」には、2012年版2015年版2020年版(←リンク貼ってあります)の三種類があり、それぞれがYouTubeで配信されています。ただし、“すらぷるさん”はサンプリングマシンは使用していません。この機器を使用せずに言葉崩しをしているところが、彼らしさとも言えます。彼はこれを「言葉を発するのではなく、音を発する単なる運動だ」と言っています。このような言い回しでビートボックスを語るのも“すらぷるさん”らしい一面と言えるでしょう。ただ、初心者の方を対象としたワークショップでは言葉崩しのような表現活動はしないそうです。

 このような“言葉崩し”は、“ナードコア”(Nerd-Core)というハードコア・テクノ(Hardcore techno)から派生したものであるといいます。"すらぷるさん”によれば、色々な歌や台詞の言葉の一部を切り取り、それをループさせてビートに乗せていく“ナードコア”のようなムーブメントが好きで、それをよく聴いていたといいます。例えば、吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』の歌の一部をサンプリングして作った作品が有名とのこと。なお、この作品は著作権的に問題があるので実際の音源もリンクも本サイトではご紹介はできません。悪しからず。

 


◇対談を終えて・・・音楽文化の振興にはコロニーの形成が必要

 

 ヒューマンビートボックスが成立していった時代的な背景や、音楽的な可能性については、これまでも拙論(『日本におけるヒューマンビートボックスの概念形成)の中である程度論じてきました。しかし、ビートボクサーすらぷるためさんと対談をすると、今や当時のストリート文化のストリートなど現実には(少なくとも日本には)存在しないし、逆に「本当はこうなんだ」という拘りが画一化を生じさせ、ヒューマンビートボックスの自由な発展を妨げているのではないかという議論へと発展していったのです。伝統文化はさておき、自然発生的に発展してきた文化は「こうあるべき」という「べき論」が展開され始めると、自由な発展が妨げられたり、一部分だけを切り取って商業ベース(もっと言うと、一部の人間の富や名声への利用)に使われたりすることが、これまでもありました。“すらぷるさん”は、かなり早くからYouTuberとしても活躍しています。しかし、「登録者数」や「いいね」の数はほとんど気にしないと言います。自分に対するコアなファンのことを考えると「一見さんお断り」とも言っていました。音楽文化の発展や日常化には、マス・コミュニティ(一方的に大人数に伝えること)ではなく、地域限定でも構わないから、創る人、聴く人、支える人が形成する“コロニー”が必要だという考えを私は以前からもっています。「みんなに受け容れられる、みんなが知っている、みんなが買ってくれる」というマスな文化ではなく、地域に定着する同じ思いを共有できる集団=コロニーの形成こそ、ヒューマンビートボックスに限らず様々な文化の発展に必要なのではないか、そう感じさせる5人のビートボクサーとヴォーカルパカッショニストの動画が2月21日から公開されました。今後も週イチペースで3月末までアップします。
どうぞご覧ください!→こちら

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コメント: 2
  • #1

    yuki (土曜日, 20 2月 2021 00:22)

    こんばんは。河本様。
    ふと、思ったのですが、河本様自身はどのようなきっかけで、ビートボックスに興味を持たれたのでしょうか??
      多分、最初から読めば、書かれているとは思いますが、僕自身、ビートボックスなるものを知ったのは、河本様からの最近のコラムからなのですが・・・・

     人は言葉によって共通の言語を使い、お互いの意思疎通を行う事が出来たと思いますが、その言葉を究極に無くしてしまうと、多分、それは人間の感情そのものを表現されていくのだと思います。
     そして、それは多分、うれしい時、悲しい時に、神様に捧げる歌として、表現されたものなのかと、思ってしまいます。
     個人的にはビートボックスもまた、神様への讃美歌なのかな。と感じました。

  • #2

    河本洋一 (日曜日, 21 2月 2021 01:27)

    yukiさん コメントありがとうございます!
    私がビートボックスに興味を持ったわけについては、『研究の経緯と今後の展望』タグをクリックすると、詳述したページが出てきますので、ここでは簡単に、「日本語歌唱」→「オノマトペ」→「模倣音」→「ビートボックス」という流れだけ示しておきますね!
    私は言語学の専門家ではありませんが、音楽が言語の壁を越えるという瞬間はあるように思います。ただ、世界共通ではありません。映画『未知との遭遇』『コンタクト』、背景にあったのは音や数字といった言語ではないメッセージでした。